数分後。香織は助手席に座り込むと、すぐに車のドアを閉め、シートベルトをしっかり締めた。その表情はまるで「ここは私の場所だから、他の誰がどうしようと関係ない。絶対に譲らない」と言っているようだった。一方で、弥生は車を降りた後、その場で少しの間立ち止まり、やがて駿人に向かって言った。「先に乗ってください」「ああ」駿人は特に異議もなく、どうせ全員で帰るのだから、一緒に乗ればいいと考えた。彼は弥生の言葉に従い、車に乗り込もうと腰をかがめたが、その瞬間、瑛介が冷たく言い放った。「どけ」彼はそのままの姿勢で一瞬固まり、やがて頭を上げて、にこやかに弥生に言った。「霧島さん、やっぱり先にどうぞ」弥生は駿人のその様子を見て、先ほどの一連の出来事を思い返しながら、心の中でため息をつき、仕方なく車に乗り込んだ。駿人も彼女の後に続いて車内へ入った。瑛介と距離を取るために、弥生は駿人側に少し寄って座った。車が走り出すと、瑛介の眉間に皺が寄った。「駿人、もう少し向こうへ寄れ」そう言われた駿人は特に気にせず、車窓側へ少しずれた。瑛介が惚れている女性なら、他の男が近寄ることを嫌がるのも理解できる。そう思いながら、駿人はさらに車窓側へ体を寄せた。しかし、瑛介はまだ不満げだった。「もっと寄れ」駿人は無言のまま瑛介を睨みつけた後、仕方なくさらに移動した。「何だよ!」駿人はとうとう堪えられず声を荒げた。「おい、瑛介、お前頭おかしいんじゃないのか?これ以上どこに寄れって言うんだ?いっそ僕に降りろってのか?」瑛介は冷静に答えた。「それがいい」「くそっ!」と駿人は我慢できず言ってしまった。耐えかねた弥生は瑛介を睨みつけた。振り向くと、彼の目と視線がぶつかった。車に乗った瞬間から、瑛介の目は彼女から一瞬たりとも離れていなかった。「君は降りるほうがいいわ」駿人はその言葉を耳にすると、心の中で密かに「さすがだ、よく言った!」と満足げに称賛した。弥生に面と向かって言い返された瑛介の表情は当然険しくなったが、最終的には唇を少し動かしてこう言った。「本当にいいのか?もし僕が降りたら、君も一緒に降りる羽目になるぞ」その言葉を聞くや、弥生は即座に視線を逸らし、彼を無視することに決めた。瑛介という男がは言ったこ
やはり、寝ているときの方が大人しい。普段は、傲慢で冷たすぎる。彼女の冷たい視線を思い浮かべる度に、瑛介の胸に鈍い痛みが走った。二人が再会してから今まで、こんなに温かい時間が訪れたことはなかった。しかし、その温かい時間も長くは続かなかった。弥生のポケットに入っていたスマホが鳴り響き、その着信音が静かな車内に響いた。弥生はすぐに目を覚ました。瑛介の体が急に緊張した。しかし、弥生は目を開けることなく、先ほどの姿勢のまま手を伸ばしてポケットからスマホを取り出した。近くにいた瑛介は、彼女のスマホ画面に表示された名前を見てしまった。「弘次」という名前を見た瞬間、瑛介の表情は一気に暗くなった。「もしもし」弥生はスマホを耳に当てて応答した。彼女の声が眠そうだったせいか、電話の向こうで弘次が一瞬黙った後、問いかけた。「もしもし、今どこ?」「あのう......」弥生はぼんやりとした声で答え、眠る前の記憶を頼りに言った。「車の中」そう言うと、今の姿勢が少し窮屈に感じた彼女は、体勢を変え、頭を横に動かして位置を調整した。落ち着いてからようやく言葉を続けた。「それで、どうしたの?」「車の中で寝てるのか?昨日ちゃんと休んでないのか?」彼女が昨日休めなかった理由は、瑛介の馬に乗せられたことで疲労と吐き気に襲われたからであって、他に理由はない。そう思った瞬間、弥生は何かに気づいたように動きが止まった。ゆっくりと目を開けると、彼女の視線は瑛介の深い瞳と交わった。その瞬間、瑛介の険しい表情が彼女の視界に飛び込んできた。「弥生?」スマホの向こうで弘次が名前を呼ぶが、弥生は答えなかった。すると瑛介が突然低い声で言った。「さっきは気持ちよかった?」弘次の声が止まった。弥生の顔色も一変した。彼女はすぐに気づいた。瑛介がわざとこのタイミングで口を開いたことを。彼は自分が電話中であることを知りつつ、さらにはスマホ画面に表示された名前まで見たに違いない。しばらくの沈黙の後、電話の向こうの弘次がようやく声を取り戻した。「今どこだ?」瑛介と会ったことなど大したことではないと考えていた弥生は、弘次に話すつもりもなかった。しかし、この状況では話さざるを得ないと思い直した。「まだ車の
こっそり耳を立てて話を聞いていた駿人と香織は、同時に目を見開き、驚きの声を上げつつ二人揃って彼らの方を振り返った。「えっ!?」「どういうこと??」運転手ですら驚き、思わず急ブレーキを踏んでしまい、車内に耳をつんざくような音が響いた。今回は、全員が運転手を見つめた。運転手は慌ててポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭いながら愛想笑いを浮かべて言った。「すみません。もう着きました」その言葉を聞いて、弥生は車がすでに競馬場に到着したことに気づいた。彼女はわずかに表情を動かすと、駿人を軽く押して先に降りるよう促した。駿人もすぐにそれに従って車を降りた。弥生はそれを見て、自分も車から降りようとすると、背後から瑛介の冷淡な声が響いた。「僕に寄りかかっておいて、そのまま行ってしまうのか?」5年ぶりに再会したというのに、彼は以前にも増して図々しくなっている。彼女はちらりと彼を見て、冷ややかに嘲笑いながら言った。「行ったらどうするの?」そう言い放つと、彼女は車から勢いよく飛び降り、ドアを乱暴に閉めて更衣室へ向かった。素早く自分の服に着替えると、一言も言わずその場を後にした。その場を離れようとする彼女に駿人が駆け寄り、少し申し訳なさそうに言った。「霧島さんたちにそんな関係があるとは知らなかった。もし知っていたら、競馬場に来ようなんて誘わなかったよ」「そんな関係ってどいうことですか?」弥生は淡々とした表情で答えた。「私と彼には何の関係もありませんよ」「......じゃあ、さっき車の中での......」「たとえ何かあったとしても、それは5年前の話ですよ」「5年前?」駿人は最初はぶつぶつと繰り返していたが、突然何かに気づいたように目を見開いた。「そういうことです」弥生は軽く頷いた。「まさか......そういうことだったのか......」駿人は呟いた。「なるほど、霧島さんを見た途端に彼があれほど理性を失うのも無理はない」この道中ずっと、瑛介のあの狂気じみた様子は駿人にとっても初めての光景だった。「ですから、どんなことがあっても、私たちの今後の連携に影響を及ぼさないようお願いしたいです」連携......駿人はようやく思い出した。弥生が今日、自分に会いに来たのは仕事の話をする
最後の一言を聞いて、博紀はようやく安心したようだった。「それなら良かったですね。明日しっかり話ができたら、きっと投資を取り付けられるはずですよ。だって、社長はこんなにも機転が利くんですから」機転が利く?本当にできるだろうか?弥生には......少し難しい気がしていた。ふと何かを思い出し、弥生は博紀を見上げて尋ねた。「ねえ、福原さんと瑛介、どっちが凄いと思う?」その質問に、博紀は一瞬困惑した表情を浮かべた。「ええ?どういうことですか?なんでそんなことを聞くんですか?」「ただ、答えてほしいの」瑛介と弥生の過去を知っている博紀は、どう答えるべきか悩んだ。もし瑛介の方が優れていると答えたら、弥生を怒らせてしまうかもしれない。何しろ、彼女は今の自分の上司なのだから。「何を考えているの?」弥生は彼が黙り込んでいるのを見て、問いかけた。博紀は思い切って答えた。「本当のことを言うべきか、それとも社長を喜ばせるための言葉を選ぶべきか、少し考えていました」その答えに、弥生は面白そうに唇を曲げて笑った。「それなら、私を喜ばせつつ真実でもある言葉を言いなさい」「それは......本当に難しいですね」弥生は眉を上げ、「これを入社1か月目の評価にするわよ」と言った。「テストですか、それならちゃんと考えなければ......」博紀はその場でしばらく考え込み、ようやく口を開いた。「もし経験で比較するなら、当然瑛介さんが一歩リードしています。何しろ、駿人さんはまだ駆け出しの若造ですから。しかし、新しく登場した若いダークホースには勢いがあります。潜在力は無限大です。ビジネスも戦場と同じで、最後まで立っていられる者こそが勝者です」その答えに、弥生は淡い笑みを浮かべた。「さすが、短期間で管理職のトップに昇進できた理由が分かったわ」博紀は微笑んで、「それはちょっと褒めすぎですよ」と軽く返した。弥生は続けて尋ねた。「もうひとつ聞きたいことがあるわ」「なんでしょう?」「駿人は、私たちのような小さな会社のために宮崎グループを敵に回すことはあると思う?」その質問に、博紀は少し間を置いて黙り込んだ。「どう?この質問に答えるのは難しいでしょ?」「社長、今日僕が提案したことに不満を感じているから、このタイ
子どもを迎えに行くため、弥生は会社を早退した。しかし、学校に到着した時には、すでに5分遅刻してしまっていた。学校の先生から、「子どもたちはすでにお父さんが迎えに来られました」と伝えられた。その言葉を聞いた弥生の顔色が一変し、声が思わず高くなった。「何ですって??お父さんが連れて行った?」ひなのと陽平に父親なんているわけがない。まさか......学校の先生は彼女の大声に驚いたようで、少し怯えた様子で言った。「その......初日に一緒にお子さんを入学手続きに連れて来られた方ですけど。あの方がひなのちゃんと陽平ちゃんのお父さんじゃないんですか?」初日に一緒に来た人?先生が言っているのは弘次のこと?それを聞いた弥生はほっと胸を撫で下ろした。先生の言っていたのは弘次のことで、瑛介が探りを入れてきたわけではなかった。「どうしましたか?何か問題があったのでしょうか?」と先生が恐る恐る尋ねた。弥生は我に返り、首を振った。「いいえ、大丈夫です。ただ少し驚いただけです。子どもたちが何か危険な目に遭ったのかと思ってしまって」「そうですか、それなら良かったです。どうぞお気をつけてお帰りください」学校の先生に別れを告げた後、弥生は急いで家に戻った。家のドアを開けると、すでに美味しそうな料理の匂いが漂ってきた。玄関で靴を脱ぎ、リビングに向かうと、子どもたちが部屋の中で楽しそうに話している声が聞こえてきた。一方、キッチンでは、弘次が雇ってくれたお手伝いさんが忙しくしていた。弥生の帰宅に気づいたお手伝いさんが振り返り、挨拶した。「お帰りなさい」お手伝いさんの声を聞いた子どもたちは、すぐに部屋から飛び出してきた。「ママ!」「ママ、帰ってきた!」2人は同時に弥生の両脚にしがみつき、顔を上げて見つめてきた。その様子に、弥生の心は一瞬で柔らかくなった。彼女は腰をかがめ、片手ずつ2人を抱き上げた。「学校はどうだった?楽しかった?お友達とケンカしたりしてないよね?」2人は同時に首を振り、「してないよ」と答えた。話をしていると、弘次も部屋から出てきた。彼の視線が弥生に向けられると、最初は散らばった彼女の髪に注がれ、次に紅潮した唇に止まったが、何も言わなかった。弥生も彼の視線に気づ
弥生は時間が遅くなっているのを確認し、二人の子どもを寝るよう促した。そして、自分の作業を片付け終えた後、顔を上げると、まだ弘次がソファに座っているのに気づいた。その様子から、彼が帰るつもりがないことが窺えた。案の定、弥生が口を開く前に、弘次は眼鏡を外し、彼女を見て微笑みながら言った。「もう遅いね」その言葉に、弥生は思わず頷いた。「うん、確かに遅くなった」「ここからホテルまで行くのも結構遠いから、今夜はここに泊まらせてもらえないかな?もちろん、宿泊費は払うよ」宿泊費を払うという弘次の言葉に、弥生はあまりにおかしな提案だと感じた。「宿泊費なんていらないわ。この家はもともと君が貸してくれたものだし、一晩だけなんだから、安心して泊まって」そう言うと、弥生は立ち上がり、「客室の準備をするわ」と言いながら動き出した。弘次も立ち上がり、「準備は自分でやるから大丈夫だよ」と言いながら彼女について客室に向かった。冬なので、泊まるには厚手の布団や枕が必要だった。弥生はほかの人が泊まりに来ることを想定していなかったため、家には布団が3セットしか用意されていなかった。弘次の分がないと気づき、彼女は少し考えた末、自分の布団を彼に渡すことにした。「とりあえず、私の布団を使って。私はひなのと一緒に寝るから」弘次は遠慮せず布団を受け取り、「ありがとう、弥生」と微笑みながら言った。「弥生」という言葉に、弥生は口元を引きつらせたが、何も言わなかった。弘次が布団を持って部屋に戻ると、弥生はその場にしばらく立ち尽くし、ようやくひなのの部屋へ向かった。弥生が一緒に寝ると言うと、ひなのは大喜びで彼女の腰にしがみつき、離そうとしなかった。「じゃあ、寝る前にひなのにお話を聞かせてくれる?」「ひなのがちゃんといい子にしてくれたらね、ママが考えてあげる」「どうしたら、いい子にしてることになるの?」「たとえば、今日学校で何をしたのかママに話してくれるとか?」さっきは弘次が一緒だったため、彼に時間を割いてしまい、二人の子どもが学校でどんな一日を過ごしたのか、ちゃんと聞く時間がなかったのだ。これこそが、彼女がパートナーを持ちたくない理由の一つだった。二人の子どもたちに十分な時間を割くのも難しいのに、さらに他の人にまで時間
弥生は、子供を学校に通わせることで、こんなことが起きるなんて、全く想像もしていなかった。もともとその学校の雰囲気が良さそうだと思い、二人の子供を通わせることにした。海外にいた頃はみんなまだ幼かったので、余計なことを考える子もいなかったようだ。しかし今や、子供たちは少しずつ成長し、それぞれが年齢に見合った新たな段階に差し掛かってきている。そして、シングルマザー家庭であることのハンデも、次第に同級生たちの間で明らかになりつつある。弥生自身も幼い頃、似たような経験をした記憶がある。父親からはたくさんの愛情を注がれた。彼女は霧島家の長女で、霧島家は大きな家柄だったため、そのような環境で彼女を寄ってたかっていじめるような人はいなかった。むしろ、霧島家のお嬢様として、周囲は彼女を持ち上げるような態度を取った。最初、弥生はみんなが自分と友達になりたがることに喜びを感じていた。彼女は自分を異質な存在だと感じていたので、シングルマザー家庭で育った自分は「不健全」と見られ、敬遠されるに違いないと思っていたからだ。だからこそ、みんなが自分と仲良くしてくれることに感謝し、人々の善意を信じていた。しかし、ある日、彼女は偶然、周囲の人たちが自分についてひそひそ話しているのを耳にした。「ねえ、みんなに秘密を教えてあげる。弥生ちゃんって変わり者なんだって」「変わり者?どういうこと?」「彼女のママ、汚い女なんだよ。彼女を産んだ後、別の男と駆け落ちしたんだって。うちのママが言ってたけど、彼女とは本気で友達になるなって。そうしないと将来、悪い影響を受けちゃうって」「えっ、本当?」「本当だよ!」「怖い!じゃあこれからは近づかないほうがいいね」幼い弥生はその言葉を耳にして、目に涙を浮かべた。それ以来、誰かに距離を置かれる前に、自ら進んでその子たちを避けるようになった。幼い頃の彼女は、そういうコンプレックスを抱えていた。そんなある日、再びその集団が彼女の悪口を言っているのを、彼女は隅でじっと耳を傾けていた。すると、偶然通りかかった少年時代の瑛介がその光景を目にした。瑛介はすぐに教室の椅子を蹴り飛ばし、その集団を殴るぞと脅した。驚いたその子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。悪口を言っていた子たちが去った後、瑛介は隅に隠れてい
言い終えると、瑛介の鋭い視線が健司にも向けられた。健司は少しばかり後ろめたそうに視線をそらした。彼には分かっていた。瑛介は明らかに、自分が奈々を部屋に通したことを責めているのだ。他の女性であれば、健司も決して安易に通すことはなかっただろう。奈々となると話は別だった。瑛介と彼女はまだ正式な関係ではなかったものの、誰の目にも明らかなのは、奈々がすでに宮崎家の母親と非常に親しい間柄になっており、彼女が宮崎家に嫁ぐのは時間の問題だと見られていた。奈々自身も瑛介の言葉の意味を察し、少し気まずい表情を浮かべつつも、仕方なく説明を始めた。「高山さんを責めないで。私がどうしても入れてほしいと頼み込んだの。もし拒否されたら騒ぐと言ってしまったから、彼も仕方なく従っただけなの」この言葉を聞いた瑛介は一瞬立ち止まり、奈々の顔をじっと見つめた。「そうか」奈々は静かに頷いた。すると次の瞬間、瑛介は冷たい笑い声を漏らした。「騒ぐだと?奈々、いつからそんな理不尽な人間になったんだ?」奈々の顔色が一変した。「いや、私はただ......」健司は、瑛介が奈々の顔を立てようとしない様子に驚き、この場がいずれ揉め事に発展するのを察して、急いで場を離れることにした。「私はこれで失礼します」「自分で火種を撒いておいて逃げるとはな」と瑛介は冷笑を浮かべたが、健司はそれを特に気にも留めず、急いで荷物をまとめて部屋を後にした。健司がいなくなると、部屋は静寂に包まれた。奈々は目の前の瑛介を見つめながら、ひどく惨めな気持ちになった。幸い、健司は瑛介の助手であり、この場に他人がいなかったことに安堵しながらも、瑛介の冷たい態度に心が締め付けられるようだった。「瑛介、今日は一日中どこに行ってたの?何度も電話をかけたのに、電源が切れてたみたいだし、仕事で忙しかったの?何か......」「奈々」瑛介は冷たい口調で彼女の名前を呼んだ。奈々は言葉を止め、彼を見上げた。「ど、どうしたの?」「以前も言ったことだが、もう一度言おうか。時間を無駄にするな」奈々はその言葉に反応し、瞳がじんわりと潤んだ。「そ、それは違うわ。無駄なんかじゃない。ただ私はあなたが好きで、あなたのために尽くしたいだけなの。それにきっと、私がずっとそばにいれば、いつ
瑛介は子供たちを家に連れて帰ったあと、わざわざシェフを呼んで美味しい料理を作ってもらい、さらにおもちゃも用意させていた。まだ二人の好みがはっきり分からなかったのと、自分でおもちゃを買ったことが一度もなかったこともあって、とにかく手当たり次第にいろいろな種類を揃えたのだった。二人の子供たちはそんな光景を見たことがなく、部屋に入った瞬間、完全に呆気に取られていた。そして二人は同時に瑛介の方へ顔を向けた。ひなのが小さな声で尋ねた。「おじさん、これ全部、ひなのとお兄ちゃんのためのなの?」「うん」瑛介はうなずいた。「君たちのパパになりたいなら、それなりに頑張らなきゃな。これはほんの始まりだよ。さ、気に入ったものがあるか見ておいで」そう言いながら、大きな手で二人の背中を優しく押し、部屋の中へと送り出した。部屋に入った二人は顔を見合わせ、ひなのが小声で陽平に尋ねた。「お兄ちゃん、これ見てもいいのかな?」陽平は、ひなのがもう気持ちを抑えきれていないことを分かっていた。いや、実は自分もこのおもちゃの山を見て心が躍っていた。しばらく考えてから、彼はこう言った。「見るだけにしよう。なるべく触らないように」「触らないの?」ひなのは少し混乱した表情を見せた。「でも、おじさんが買ってくれたんでしょ?」「確かにそうだけど、おじさんはまだ僕たちのパパじゃないし......」「でも......」目の前にある素敵なおもちゃの数々を、ただ眺めるだけなんて、あまりにもつらすぎる。ひなのはぷくっと口を尖らせ、ついに陽平の言葉を無視して、おもちゃの一つに手を伸ばしてしまった。陽平が止めようとしたときにはもう遅く、ひなのの手には飛行機の模型が握られていた。「お兄ちゃん、見て!」陽平は小さく鼻をしかめて何か言おうとしたが、そこへ瑛介が近づいてきたため、言葉を呑み込んだ。「それ、気に入ったの?」瑛介はひなのの前にしゃがみ、彼女の手にある飛行機模型を見つめた。まさかの選択だった。女の子用のおもちゃとして、ぬいぐるみや人形もたくさん用意させたのに、彼の娘が最初に手に取ったのは、まさかの飛行機模型だった。案の定、瑛介の質問に対して、ひなのは力強くうなずいた。「うん!ひなのの夢は、パイロットになることなの!」
とにかく、もし彼が子供を奪おうとするなら、弥生は絶対にそれを許さないつもりだった。退勤間際、弥生のスマホに一通のメッセージが届いた。送信者は、ラインに登録されている「寂しい夜」だった。「今日は会社に特に大事な用事もなかったから、早退して学校に行ってきたよ。子供たちはもう家に連れて帰ってる。仕事終わったら、直接うちに来ていいよ」このメッセージを見た瞬間、弥生は思わず立ち上がった。その表情には、明らかな驚きと怒りが浮かんでいた。だがすぐに我に返り、すぐさま返信した。「そんなこと、もうしないで」「なんで?」「君が私の子供を自宅に連れて行くことに同意した覚えはない」相手からの返信はしばらくなかったが、しばらくしてようやくメッセージが届いた。「弥生、ひなのちゃんと陽平くんは、僕の子供でもある」「そう言われなくても分かってる。でも、私が育てたのよ。誰の子かなんて、私が一番よく分かってる」「じゃあ、一度親子鑑定でもしてみるか?」「とにかく、お願いだから子供たちを勝手に連れ出さないで」このメッセージを送ってから、相手は長い間返信を寄こさなかった。弥生は眉をわずかにひそめた。もしかして、彼女の言葉に納得して子供たちを連れて行くのをやめたのだろうか?だが、どう考えてもおかしい。瑛介は、そんなに簡単に引き下がる男ではない。不安が募る中、まだ退勤時間まで15分残っていたが、弥生はもう我慢できず、そのまま荷物をまとめて早退することに決めた。荷物をまとめながら、弥生は心の中で瑛介を罵っていた。この男のせいで、最近はずっと早退ばかりしている。まだ荷物をまとめ終わらないうちに、スマホが再び震えた。ついに、瑛介から返信が届いた。「子供は車に乗ってる。今、家に帰る途中」このクソ野郎!弥生は怒りに震えながら、電話をかけて文句を言おうとしたその瞬間、相手からまた一通のメッセージが届いた。「電話するなら、感情を抑えて。子供たちが一緒にいるから」このメッセージを見た弥生は言葉を失った。腹立たしい!でも子供たちのことを考えると、彼女は何もできない自分にさらに苛立った。彼のこの一言のせいで、「電話してやる!」という気持ちは完全にしぼんだ。電話しても意味がない。どうせ彼は電話一本で子供たち
しばらくして、弥生はようやく声を取り戻した。「......行かなかったの?」博紀は真剣な面持ちでうなずいた。「うん、行きませんでした」その言葉を聞いた弥生は、視線を落とし、黙り込んだ。彼は奈々に恩がある。もし本当に婚約式に行かなかったのだとしたら、それはまるで自分から火の中に飛び込むようなものではないか?でも、行かなかったからといって、何かが変わるわけでもない。「当時は、多くのメディアが現場に詰めかけていました。盛大な婚約式になるだろうと、皆がそう思っていたからです。でも、当の主役のうち一人が、とうとう姿を現さなかったんですよ。その日、江口さんは相当みっともない状態だったと聞いています。婚約式の主役が彼女一人だけになってしまい、面子を潰されたのは彼女個人だけでなく、江口家全体にも及んだそうです。ところが、その現場の写真はほとんどメディアに出回ることはありませんでした。撮影されたものは、すべて削除されたらしくて......裏で何らかのプレッシャーがかかったのかもしれませんね」そこまで聞いて、弥生は少し疑問が浮かんだ。「もしかして......そもそも婚約式なんて最初からなかったんじゃないの?」彼女の中では、瑛介が本当に行かなかったなんて、どうしても信じがたかった。あのとき彼が自分と偽装結婚して、子供まで要らないと言ったのは、心の中に奈々がいたからではなかったのか?それなのに、奈々のほうから無理やり婚約に持ち込もうとして、結局うまくいかなかったって......「最初は、みんなもそうやって疑ってたんですよ。でも、あの日実際に会場にいたメディア関係者の話によると、現場は確かにしっかりと装飾されていて、かなり豪華な式場だったそうです。ただ、どこのメディアも写真を出せなかった。すべて封印されて、もし誰かが漏らしたらクビになるっていう噂まで立っていたんです。でもその後、思いがけないことが起きましてね......たまたま近くを通りかかった一般人が、事情を知らずに会場の様子を何枚か写真に撮ってネットに投稿しちゃったんです。それが一時期、すごい勢いで拡散されたんですけど......すぐに削除されてしまいました」「写真に何が写ってたの?」博紀は噂話を楽しむように笑った。「僕も、その写真を見たんです。ちょうど江口さんが花束を抱え
博紀はにやにやしながら言った。「あれ、社長はまったく気にしていない様でしたけど、ちゃんと聞いていらしたんですね?」彼女は何度か我慢しようとしたが、最終的にはついに堪えきれず、博紀に向かって言い放った。「クビになりたいの?」「いやいや、失礼しました!ちょっと場を和ませようと思って冗談を言っただけですって。だって、反応があったからこそ、ちゃんと聞いてくださってるんだって分かったんですし」弥生の表情がどんどん険しくなっていくのを見て、博紀は慌てて続けた。「続きをお話ししますから」「当時は誰もが二人は婚約するって思ってたんです。だって、婚約の日取りまで出回ってたし、中には業界の人間が婚約パーティーの招待状をSNSにアップしてたんですよ」その話を聞いた弥生の眉が少しひそめられた。「で?」「社長、どうか焦らずに、最後までお聞きください」「その後はさらに多くの人が招待状を受け取って、婚約会場の内部の写真まで流出してきたんです。南市の町が『ついに二人が婚約だ!』って盛り上がってて、当日をみんなが心待ちにしてました。記者が宮崎グループの本社前に集まって、婚約の件を聞こうと待機してたんです。でも、そこで宮崎側がありえない回答をしたんです。『事実無根』、そうはっきりと否定されたんですよ」弥生は目を細めた。「事実無根?」「そうなんです。宮崎さんご本人が直接出てきたわけではありませんが、会社の公式な回答としては、『そんな話は知らない、まったくのデマだ』というものでした」博紀は顎をさすりながら続けた。「でも、あの時点であれだけの噂が飛び交っていたので、その回答を誰も信じようとしなかったんです。その後も噂はさらに加熱していって、会場内部の写真が次々と流出しましたし、江口さんのご友人が彼女とのチャット画面まで晒して、『婚約の話は事実です』なんて証言までしていたんですよ。そのとき、僕がどう考えていたか、社長はわかりますか?」弥生は答えず、ただ静かに博紀を見つめていた。「ね、ちょっと考えてみてください。宮崎さんはあれほどはっきりと否定しているのに、それでもなお婚約の噂が止まらないって、一体どういうことでしょうか。それってもう、江口さんが宮崎さんに『婚約しろ』と無言の圧力をかけているようにしか見えなかったんですよ。皆の前で『私たち婚
もともと弥生の恋愛事情をネタにしていただけだったが、「子供」の話が出た途端に、博紀の注目点は一気に変わった。「社長がお産みになった双子というのは、男の子ですか?それとも女の子ですか?」弥生は無表情で彼を見た。「私じゃなくて、友達の話......」「ええ、そうでしたね、社長の『ご友人』のことですね。それで、そのご友人がお産みになった双子というのは、男の子でしょうか、それとも女の子でしょうか?」「男の子か女の子かって、そんなに大事?」「大事ですよ。やっぱり気になりますから」「......男女の双子よ」「うわ、それなら、もし元ご主人がお子さんを引き取ることに成功したら、息子さんと娘さんの両方が揃ってしまうじゃないですか!」「友達の元夫ね」「そうそう、ご友人の元ご主人のことですね。言い間違えました」「でも瑛介......じゃなくて、社長のご友人は、どうして元ご主人が子供を『奪おうとしている』と考えていらっしゃるのでしょうか?一緒に育てたいという可能性は、お考えにならなかったのですか?」「一緒に育てる?冗談を言わないで。それは絶対に無理」「なんでですか?」博紀は眉を上げて言った。「その元ご主人......いえ、社長のご友人の元ご主人というのは、かなりのやり手なんでしょう?そんな方が一緒に育てるとなれば、むしろお子さんにとっては良いことなのではありませんか?」「いいえ、そんなの嘘よ。ただ奪いたいだけ、奪う」弥生は少し固執するように、最後の言葉を繰り返した。「彼にはもう新しい彼女がいるのよ。協力して育てるなんて全部ありえない。ただ子供を奪いたいだけなの」「新しい彼女?」その言葉を聞いたとき、博紀はようやく核心にたどり着いた気がした。彼はにこやかに言った。「つまり社長はこうお考えなんですね。宮崎さんにはすでに新しいパートナーがいる。だから、彼が子供を奪おうとしているのではないかと。違いますか?」弥生は彼をじっと見つめた。何も答えなかったが、その表情が全てを物語っていた。しかも、彼女自身は気づいていないようだったが、博紀はもう「社長の友達」などとは言わなくなっていた。次の瞬間、彼女は博紀が苦笑いするのを見た。「もし社長がご心配なさっているのがそのことでしたら......気になさらなくて大丈夫ですよ
「うん」瑛介は冷たく一声だけ応えた。「じゃあ、社長......会社に戻りましょうか?仕事が山積みでして、このままだと......」その後の言葉を健司は口にしなかったが、瑛介自身も理解していた。彼は唇の端を真っすぐに引き締め、最後に視線を外して言った。「会社に戻ろう」弥生は地下鉄の駅に入ってしばらくしてから、思わず後ろを振り返った。誰もついてきていないのを確認して、ほっとしたと同時に、心のどこかでほんの少しだけがっかりしている自分に気づいた。だがその淡い感情もすぐに押しやり、弥生は素早く切符を買ってその場を離れた。その後、会社ではずっと気分が上がらず、会議中でさえどこかぼんやりとして、心ここにあらずの状態だった。ぼーっとしながら会議を終えた後、弥生のあとをついて出てきた博紀が、思わず彼女の前に立ちふさがった。「社長、ここ数日、少しご様子がおかしいようですが、大丈夫ですか?」その言葉に弥生は少し立ち止まったが、彼の問いには答えなかった。「社長、何かありましたか?僕でよければお話を伺いますが......」弥生は首を振った。「いいわ。私のことを話したら、きっと明日にはみんなに知れ渡ってるでしょうから」「それはあんまりですよ。確かに僕はゴシップ好きかもしれませんが、口は堅いつもりですよ。もし僕が軽々しく話すような人間なら、今ごろ社長と宮崎さんのことは社内中に広まっているはずでしょう?」そう言われて、弥生は反論できなかった。会社の中で彼女と瑛介のことを知っている人は、実際ほとんどいない。以前、あの新入社員が偶然目撃したのは例外として、それ以外は本当に誰も知らなかった。博紀は確かに噂好きではあるけれど、口は堅い。彼女の悩みを、誰かに相談したい気持ちはずっとあった。年老いた父には、あまり頻繁に頼れないし......博紀の年齢を思い出しながら、弥生は小さく声を出した。「ねえ、もし君が奥さんと離婚したとしたら......」「え?」博紀はすかさず遮った。「『もし』なんてありませんよ。僕はうちの妻と絶対に離婚なんてしませんから!うちはとても仲良しなんですから!」博紀はにっこり笑って言った。「僕からのアドバイスとしては、『友人』の話ということにして切り出されたらいかがでしょうか?」友人
しかし陽平は前に進まず、ためらいがちにその場に立ち尽くしていた。「ひなのはもう車に乗ったわよ。何を心配しているの?ひなのを置いていくわけないでしょう」弥生はそう言って、自ら陽平の手を取り、車の方へと歩き出した。瑛介がひなのを抱き上げて車に乗せた仕草は、確かに弥生の心を揺さぶった。瑛介が子供を連れて行こうとする限り、自分も無視することなどできない。弥生が車に乗り込むのを見届けると、瑛介は薄い唇をゆったりと持ち上げ、柔らかく美しい弧を描いた。しばらくして、ひなのを自分の腕に抱きかかえた。今日は自らハンドルを握ることはなく、運転席には前方に運転手が控えていた。弥生と陽平が乗車したのを見届けると、外で控えていた健司も続いて乗り込んだ。健司が車に乗ってからは、視線が完全に弥生と二人の子供たちに釘付けだった。この二人の子が瑛介の子供だと知ったときは、本当に驚愕した。いつもクールな瑛介の様子からして、彼は一生独身を貫くと思っていたのに、まさか、子供が二人もいたなんて......しかもなにより、未来の社長夫人があまりにも美しすぎる......そんなことを考えていると、健司はふっと冷たい視線が自分の顔に突き刺さるのを感じた。その視線の先をたどると、瑛介の氷のような警告の視線とぶつかった。その目はまるで「弥生をどこ見ているんだ」と無言で告げているような、鋭く研ぎ澄まされた視線だった。健司はとっさに目を逸らすと、「……見てません」と、心の中で慌てふためきながら呟いた。朝食を終えると、瑛介は運転手に二人の子供を学校に送るよう指示した。学校に着くと、弥生はすぐに車を降りた。教師は二人が同じ車から降りてくるのを見て、少し驚いたような目でこちらを見た。昨日の弥生の怒りを見たその教師は、彼女の目を見ることすら恐れていた。きっとまた怒られるのを怖れているのだろう。昨日のことを思い出し、弥生は少し後悔の念にかられた。ちょうど謝ろうとしたそのとき、隣から瑛介の声が聞こえた。「行こう、会社まで送るよ」その一言で、弥生の頭の中の思考は瞬く間にかき消され、冷ややかに口角を引き上げると、彼の提案をきっぱりとはねつけた。「送らなくてもいい、自分で行くわ」瑛介は唇をきゅっと引き結んだ。「歩いて会社に行くつもりか?」「
たとえ弘次が本当に忘れていたとしても、友作が忘れるはずがない。......そう思い、今回の一件だけで弘次のことを疑う気持ちを完全に消すことは、弥生にはできなかった。彼女はソファに身を投げ出し、深く沈み込むようにして目を閉じた。翌朝。瑛介を避けるため、弥生はいつもより30分早く子供たちを連れて家を出た。朝食も外で済ませるつもりだった。彼を避ける完璧な計画だったはずなのに、マンションを出た瞬間、目に飛び込んできたのは、一台のストレッチ・リンカーンだった。その横で、健司が欠伸をかみ殺しながら立っていた。明らかに眠たそうで、ぼんやりしている。弥生が彼を見つけて数秒の間に、健司は連続して二回もあくびをした。三回目のあくびに入ろうとした瞬間、子供を連れて降りてくる弥生を見つけた。途端に眠気も吹き飛び、目が覚めたように弥生の方へ駆け寄ってきた。「霧島さん、おはようございます!」やばい......健司は数歩で彼女の進路を塞ぎ、元気いっぱいに言った。「今日は早いですね!道中、社長にそこまで早く来なくてもいいって言ったんですが、社長はきっと早く降りてくるはずだって......いやあ、さすが社長、読みが鋭いですね」そのとき、瑛介が車から降りてきた。「おじさん!」ひなのは大喜びで彼に向かって駆け出していった。......昨夜、自分と約束した話はもう全部忘れてしまったようだ。瑛介は膝を折り、ひなのを抱き上げた。今日はグレーのロングコートに、ネクタイとスーツを身にまとい、きちんとしていた。その腕の中のひなのは、コートを着ていて、まるでお餅のようにふわふわして可愛らしく、二人の並ぶ姿はとても雰囲気がよく、しかも顔立ちまで似ていた。弥生は目を閉じて、この光景を見ないようにした。「霧島さん、お嬢さんとお坊ちゃん、こんなに早くお出かけとは......まだ朝ごはんはお済みじゃないでしょう?」弥生は何も答えず、唇を固く引き結んだ。健司も彼女の無視に気づき、気まずそうに黙り込んだ。瑛介はひなのを抱いたまま弥生の元に近づき、弥生の隣で少し後ろに下がっている陽平に視線を落とした。そして再び、弥生の顔を見つめた。「朝ごはんを買いましょう」弥生はその場でじっと立ち止まり、冷たい視線で瑛介を見返した。瑛介はその
その言葉を聞いて、弥生は思わずぎょっとした。ひなのがそんなことを思っていたなんて......彼女は少しだけ眉をひそめたが、すぐに表情を緩め、しゃがんでひなのに手招きをした。ひなのは素直に歩み寄ってきて、弥生の胸にすっぽりとおさまった。「ママ」弥生は小声で様子を探るように尋ねた。「さっきの言葉......誰かに教えてもらったの?」ひなのは小さな声で答えた。「誰にも教えてもらってないよ、ママ。ひなのが自分で思ったの。ママ、おうちに帰ってすぐに窓のところに行って、寂しい夜さんを見てたでしょ?」「違うわ。ママはただ......カーテンを閉めに行っただけよ」「でも、ママがカーテンを少しだけ開けて、こっそり覗いてるの、見えちゃったよ?」この子、どうして、いつも瑛介の味方ばかりするの?そう思った弥生は、ひなのの柔らかいほっぺを指でむにっとつまんで、軽くたしなめた。「ひなの、最近ママの言うことに逆らうことが多くなってない?」ひなのの顔は元々もちもちしていて、弥生につままれたことでさらにピンク色に染まり、とても可愛らしかった。ぱちぱちと瞬きをして、純真な声で言った。「でも、ママ......ひなの、ほんとのこと言っただけだよ?」......まあ、まだ五歳だし、言っても通じないかもね。そう思いながらも、弥生は諦めきれず、でも諭すような口調で続けた。「ひなの、ママとお約束できるの?」「どんな約束?」「これからはね、寂しい夜さんの前では、ママが言ったことがすべて正しいって思って、ママと反対のことを言っちゃダメよ」ひなのはすぐに答えなかった。少し不思議そうな顔で訊き返してきた。「ママ、寂しい夜さんのこと......好きじゃないの?」ついに来た、この質問......弥生はすかさずうなずいた。「うん」「じゃあ、寂しい夜さんのことが嫌いなの?」この質問には、すぐには答えられなかった。 「嫌い」と言い切ってしまったら、娘の心にどんな影響があるのかと心配していた。しばらく考えた末、弥生はやさしく問いかけた。「ひなの、最近悠人くんと仲良くしてるでしょ?好き?」「うん、好き!」「じゃあ、前の席にいる男の子は?あの子のことも好き?」ひなのは少し考えて、首を横に振った。「あの